2015年4月5日日曜日

近況その8 しゅみせん山の遠足

1月22日のこと。
家族がみんなおってわやわやしてる最中のこと。台所で家事をしていると、突然、これはなにか見せらようとしているな、という感じがしたので、そちらに意識を向ける。

寝てる時だの、寝る直前だのにしてくれりゃいいのに、なんでまたこんな落ち着かない時間に~(*´Д`)、とちょっと思うがこっちから望んでアクセスしてるわけじゃないので仕方がない。


あっち世界・・・どっかの世界の自分視点の一つ、桜じぇいど♪の視点ね、と思ったのだが・・・場所がいつもの機織りや着物を作ってる職場じゃあない。スーさんに連れられてどこかへ行くところ。歩き続けているので屋内という感じじゃあない。

脳内映像フィルターの詳細、「旅支度の桜ちゃん」を作ろうと数秒試行錯誤するが
「どうでもいいディテールにこだわらなくてよろしい。」
ぴしゃりとたしなめられる。大事なのはそこじゃない、ってことだろう。

まもなく、鳥居?ゲート?(はっきりしない)までくる。
「わたしがついてきてやれるのはここまでだ。
ここから先は一人でいきなさい。」
と言われてちょっととまどう。

あとからこれを書きながらの考察だけれど、大日如来さんに最初に会わされたときと同じくスーさんがガイドというパターンは同じ。
つまりこれは「第二の課題」。

★      ★      ★


急な階段が延々と続いていて「300段」と言われる。
20段登ったところで立ち止まって振り返ると、スーさんはまだ入り口に立っていて。
「いきなさい」と即される。

雰囲気の流れから、あれは鳥居だとしたら・・・登るのはなんだろう・・・どこかの霊山?ご縁のあるとこなら・・・三輪山とか?とか色々予想しようとして思考に捉われはじめると
「登ることに集中しなさい」とまたまたたしなめられ。

25、26、27・・・と足元を見ながら一歩一歩登り続ける。脳内で展開される世界で体を動かしたり何かを触ったりしているのをかなりリアルに感じる、ってのは、守護のカイルやミカエルに叩きこまれた訓練のたまもの。いつもなら台所に立ったままだろうと、目を開けていようと、特に意識せずに苦も無く展開できる・・・

・・・はずなのだが。途中からふわふわと全体の感覚が揺らいでしまったり、「自分を自分の大きさに確定しておく」とか「足をちゃんと階段につけて一歩一歩登っている感覚」を保っているのがちょっと難しくなってくる。

あとから考えると、三百段を一段一段数えて登る、という行為は一気にではなくだんだんに「そこ」に波動を合わせるという行為で、ぐらぐら認識が揺らぐのは脳内?とはいえ、周囲の場のエネルギーが変化していたからなのかもしれない。

途中から「いや、こんなことしてる時間現実にはないんだけど」「はやく次にすすまなきゃ」と思って、階段を小走りに。←ガイドの熟慮を無駄にするヤツw

どうやら普通の山をらせん状に緩やかに上る道とは違って、ものすごく長細い山に直線状態に階段が延々続いているだけという場所で、だんだんものすごく高いこところを登っている感覚になってくる。

最後の30段くらいから誰か「スーさんではない人」に繋がっているのがわかり、「しゅみせん」という言葉が意識に送られてくる。「しゅみせん」ってなんだっけか?仏教?中国思想?と、相変らずたよりない記憶力で思い、またまた思考に捉われそうになると
「それはあとで自分で調べなさい。それより、まわりをよく見なさい」と言われる。

はるか下のほうに、その山を囲んで四方に延々広がる地面だか水面だかがあり、「場」の塊がいくつもいくつも併存して、たくさんの国、世界があるように感じる。その一つ一つの詳細までは捉える暇はないんだが、一つ一つがそれぞれ「一つの世界」なんだろうということがわかる。

最後の10段くらいで出口のゲートが見え始める。鳥居のようでもあるし、そうでないようでもあるし。

ゲートを出ると階段がなくなって、目の前にあるのは、急な崖?岩が延々細い道のように切り立ったと言っていいくらいの急坂に続いてて・・・えーと・・・次はここをよじ登れってか?どうすりゃいいんだ?とその先の行動い戸惑うと・・・

そこは上からちょろちょろと水が流れて来てて自分の足元に水が溜まっているんだ、とわかり。指示はなかったが、なんとなくそれを掬って、三回、飲む。考える前に行動に出ていたのでその時は理由がわからなかったが、あとから考えると、、というか、ここの波動に自分を合わせる行為だったんだろうな、と思う。

すると、視界がもう少しはっきりして、横に道が続いているのがわかり、山の回りをぐるっと回るように、右に進む。

ところがそこでお風呂におるおとーさんにいつものよーに呼び出しチャイムで呼ばれてしまったので中断しかけたのだが。脳内ではまだその道を移動・・・

するとその繋がっている誰だからわからない誰かが
「その先になにがあると思う?」と。

山の裏側あたりまで感覚をのばすと、洞窟?入口?中から下に向かう場、あるいはトンネル、空洞、みたいなものがある?と思うと・・・

「世界への入口。」

と。

その言葉の意味の解釈に困っていると、またおとーさんのチャイムに呼ばれたので、一旦切って用事をすまし。数分後に繋いで続きを見ようとすると・・・・

洞窟の入り口だのなんだのよりもはるか上にありそうな、ものすごく狭くて高い山の頂上に立っている。立っているだけのスペースしかなくてそれ以上どこにも行きようがない。

うわ・・・ここどこ?なになに?なにが起こった(((( ;゚Д゚)))?と思うと、さっきよりずっとはっきりと、さっきの人と繋がっている。

「ここから見える風景、感覚をよく覚えておきなさい。
人は、何事かを現実の世界で成すためには、あの、沢山ある世界のたった一つを選び、肉体を持って、そこに降りて行かなければならない。

一旦下りれば、そもそもの自分を忘れ、来た目的を忘れてしまい、その世界に没入して狭量な視点になってしまい、全体を見渡して自分の立ち位置を客観的に見るのは難しいものだ。
しかし、この頂上にとどまったままでは、なにもできないのだ。

上手くこの場を使いなさい。下の世界にありながら、なにかあったときには、この頂上に一旦立ってみて、そしてまた戻りなさい。

そして、いつでも、わたしはここにいる。」

その誰だかわからない誰かは、そう言ってくれました。
ありゃーいったい誰でしょう?

★      ★      ★

ってことで。しゅみせん、ってのを調べてみましたらば。

「須弥山」と書くとかで。仏教の世界観における世界の中心、みたいなもんらしいんですが。
須弥山図from Wikipedia

別に仏教だけではなく、色んな宗教に共通して「世界の中心に高い山がある」「そこになんらかの存在が住んでいるが具体的な姿はない」という概念があるらしく。

仏教でいうと帝釈天、道教で言うと天帝
東寺 帝釈天像

ま、だれでもいいや。
たぶん、そういう「場」があるってだけで、どの宗教でのなんという概念だ、ってことにはあんまり意味はないだろうよ。

★      ★      ★

このあたらしい視点切り替えのツール・・・を与えられた、と思ってるんですけどね、なんかどっかの次元で須弥山とかいう場に行ったとかどうとかじゃなくて・・・・これ、「須弥山モード」とでも呼びますと。

まず、先に語りました凪モードとはかなり違う。凪モードにはなろうと思ったって、今すぐ成れるわけでもなく。こうして振り返っても記憶にあるのは「ここにいるわたしが」「内臓、腑で感じる感覚として空っぽで何もない、ひたすら「静」だった」という感じ。

須弥山のほうは・・・言葉で説明するの、難しいですねえ・・・ここにいる私の視点を離れて、肉体を抜け出て(アストラルトラベルとか幽体離脱という形ではなく)、俯瞰視点になる、って感じでしょうかねえ。

面白いことにこの「須弥山モード」、慣れるとわりと瞬間的に切り替えることができることに気づきまして。別に階段をいちいち登らなくてもよくなった。もっと慣れたら須弥山もでてこないかもですね。所詮補助ツールみたいなもんでしょうから。



目の前にある現実に起こっていること、状況を俯瞰視点で見て客観視する、ってのはこの記事でもその重要性を語りましたし、自分でもこれまでも多用してきましたけれども。

この新しい「須弥山モード」に比べると、これまでの客観視、俯瞰視点は須弥山から見える一つ一つの場の内部に置いての俯瞰でしかなかったし、感覚と言うよりは理性寄りでの俯瞰だった。

それに対してこの須弥山モードは、感覚としての俯瞰。そしてその「場」「一つの世界」から出ちゃってる。これまではここまでカメラをうーんと引きにしたような視点にするには、たぶん、自分の波動そのものをしばらく変えないとならなかったんですね。

具体的方法は色々ありましたが、高次の存在や場と一時的に「繋がる」ではなく「同化」したり、肉体的・エネルギー的にクリアにして波動をアゲ調整にしたり。

それには時間も手間も体の負担も多少かかってたし、(普段からデトックスやクリアリングしてりゃいいんでしょうけどそういう生き方は自分の好みとして選択してないもんで^^;)元に戻すにも一瞬、ではなく。ま、ようするに、最初はゲロ吐いたり頭痛で寝込んだり眩暈したりなんてこともありましたしね・・・(*´Д`;)。

それに対し、このモード、感覚としてはもちろんそうディープではないものの、切り替えるのも上記のなんかよりずっと簡単。もどるのも簡単。



まあでもね、なにかあったとき、この場を使いなさい、とおっしゃってくださったが、極端な俯瞰視点が必要な場面なんてそうそうないしね。ちょっとね、このモードからの感覚ってのは、人間離れしちゃってて、何かについて考えるとき使っても、普通の状態のじぇいど♪とは違う答えを出しそうだなと思ったり。

だからこんなん、使う機会なんてそうそうないやね。そう思ってたんですが・・・。

こないだ、便利につかわしていただきました。
歯医者の診察台の上、麻酔ナシがりがりの最中、あ、先生それやばいやばいダメだそこは!って思った瞬間・・・とっさに須弥山に逃げましたら・・・全く平気www

玉を以て鳥になげうつ、犬のクソに手裏剣、

そ れ 使 用 法 違 う か ら

って感じでしょうが・・・ちょっと便利だよw




つづく


今日もぽっちり、ありがとう( ^^) _旦~~ 

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21 件のコメント:

  1. おはよおございます~ご飯は出来たのですか><と、変なとこ心配してる・・・目の前にある現実に起こっていること、状況を俯瞰視点で見て客観視する。。。これが出来たら、すばらしい事ですよねえ。これが出来ずに、悩みの檻につかまっているような気がします><
    ひとつ疑問があるのです!地球という世界は、良いこともあるけど、悲しいこともある。悲しいを通り過ぎて、むごすぎる世界でもあるような、いくら経験したいとか感じることをしたいからといって、あまりにも、マゾ過ぎるのではと。。。。。ほんとに望んできたのかしらと。。。。考えすぎなのでしょか、光瀬龍?さんの百億の昼と千億の夜という本を萩尾望都さんが漫画化してくれているのですが、そこで、誰がこの世界を作ったのかと・・・・・
    堂々巡りの疑問が次々に・・・・あ、デモ。須弥山私も行きたいです!!歯医者嫌いだし
    ププ・・・痛いこといやだし><ソレも、、経験したくてここに来たのかしら・・・イヤアア・・byキエポン

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    1. 横レスすみません。
      須弥山の帝釈天が出てきた所で
      丁度萩尾望都のあの作品が
      脳裏をよぎりました。

      たしか、あの本では、
      この大きな大きな宇宙を

      顕微鏡(?)でのぞいている
      他の生命体(?)が居るという
      イメージで終わっていましたよね。

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    2. ジェイドさんの、ブログを読んで浮かんできた本なのですが、最後が良くわからなかったのですよ、そういうことだったのか。。探してもう一度読み直してみたいと思います

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    3. 御無沙汰しております。さらに横レスで、すみません。
      萩尾望都氏のあの作品と聞いたら黙ってられなくて。昔、ドはまりした作品です。
      じぇいど♪家の本棚にも美麗な表紙で並んでますね。
      あの世界観は、自分のスピ好き原点の一部だったりするんですよ~。

      須弥山モード・・・なるほど・・・というほどわかるわけじゃありませんが、便利ですね。客観視忘れてイライラしちゃうから、いつも須弥山行けるようになれればいいなあ。

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    4. >キエポンさん

      25年も経つとご飯つくりは自動モードですw うん、客観視君、の記事にも書きましたが、俯瞰は気持ちよく過ごすための大事なキーポイント、みたいですね。
      そのご質問、人間の古来からの疑問ですよねえ。ほんと負の経験も望んできたとすると単純に考えるとあまりにもマゾすぎる。一体誰か何のためにこんなつらいことも多い世界を作って我々はなんのために生きているのか。生かされているのか。色んな宗教や精神世界の論理がそこんとこをなんとか説明しようと試みてきたわけですが。
      色々な論理に接して個人的に思うのは、宗教や精神世界の論理ってのは「人の心を救うためのもの」であるべきだろうなあ、と思うんですよ。刃飲向きを間違えたら薬も毒となる。
      たとえば震災の後に被害者本人があまりにも辛い状況を目の前に「これすらも魂が望んだ経験かもしれない」と、正気を保ってなんとか動くため、自らの精神をなんとか救おうとするためにその論理を使うならまだしも、無関係な人が遠くから「あれらもすべて魂が望んだことですから」って言いはなつのは違うと思うんですね。

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    5. >キエポンさん、isaoさん、永遠呼さん
      「百億・・・」のラストはいいですよねえ。連載は1977年ってありますからじぇいど♪中学生ですね。カラーページやぶいてファイルしたの覚えてますからリアルタイムで読んだはず。話の全体とラストの意味がなんとなくわかったのは単行本になってからでしょうが、世界観として全然違和感なかったですね。あれがあったから、エメラルドタブレットとか読んでもすんなり、あーああいうことね、と思えましたし。あの漫画最初に読んだ当時はスピ好きでもなんでもないただの漫画が好きな子供でしたが、アレと、どっかで知った(テレビのUFO特集とかでしょうかね)「人類は他の高等知性を持った異星人が遺伝子操作で作った」っていう説を、ものすごく素直に「それが一番妥当そうだよな」って思った覚えがあります。

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    6. じぇいどさん、私の頭の中のもやもやを見事に文章にしてくれて嬉しいです。、萩尾望都さんの漫画、読んでた方々もいて感激です!!

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    7. おかげで私の中では阿修羅王というと、この作品の中の凛々しく美しい少女姿なんです。なので、興福寺の仏像を見た時のナンカチガウ感が・・・ああ罰当たり(泣)

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  2. 三味線好き(ちがうから

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    1. しゅみせん・・・しゃみせん・・・・
      よぉッ!べべべん、べん♪
      しゅみましぇん・・・(;^ω^)

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  3. 「須弥山」、この前送らせてもらった絵を描かせてもらった時に感じた雰囲気に、なんか似てるな~と思いました*^^*
    すごく大きな世界にグーンと引っ張られる感じがして。。
    それに、すごく清々しくて、こっちの世界とは違うように感じました♪^^

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    1. わぁ~そうなんですか~。
      今すぐそばに飾ってありますがね、ぱっと見は
      「かわいい絵」なんですがみるほどに意味深ですねえ。

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  4. 密教僧が仏像の中に入って居る仏様に
    帰って頂く時に(仏像やお墓から魂を抜く事=撥遣)
    須弥山を頭の中でイメージし御車で
    お送りするんだそうです。

    須弥山が
    まさかの無我の境地(?)の
    場所だったとはw

    お坊さんがバンジージャンプしても
    脈拍が乱れないのも
    須弥山に意識を飛ばしてるからなのかなw

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    1. おおお、ああいうとき、なにをどうしてるんだろうね、って思ってたんですが、お坊さんの脳内?ではそういうことになっとるのですね。
      いやいや、各宗派で教えられてる須弥山のことは全然存じておりませんですから、あくまでもじぇいど♪に与えられたツールとしての、って話でございます。
      お坊さんってバンジージャンプのとき脈拍乱れないんですか!それはすげぇ!
      そうそう、ばんぶるがバンジージャンプしたがってて困ってます^^;。

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  5. 場所は違うのですが、私も夢の中で長い階段を上ったことがあります。
    階段を一段一段上っていかないと辿り着けない建物で、誰の助けも借りずに自力で上らないと中に入れてもらえない場所でした。
    はじめは楽に上れていたのに、だんだん足が重くなってきて最後の数段がものすごく辛かったです。
    最後の力を振り絞って最上段まで上ったら、それまで閉じていた扉が開いて中に招き入れてもらえました。
    でも、これで終わったという達成感じゃなくて、これが始まりなんだなって感じました。

    夢の中だったのですが上るのでバテちゃったので、後で爆睡してました(((^_^;)

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    1. 階段のイメージってのは波動を変化させるとかなんかによく使われるモチーフなのかもしれませんね。
      ばてる、ってのも気的に疲れる、ってことだったんでしょうかね。

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  6. 紹介


    百花繚乱 http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/

    おほもと http://www.oomoto.or.jp/

    言霊百神 http://futomani.jp/

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    1. 興味深そうなリンクをたくさんありがとうございます。
      こういうの、前は全然読めなかったんですが、ここんところ語ってきましたようなアレコレを経たら少しずつ面白く感じるようになってきましたので、楽しみに少しずつ拝見させていただきますね(´▽`*)

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  7. みかです。
    じぇいどさん、ご無沙汰しております。
    前に、GIVING TREEのことなどについて、あれこれコメント欄に書かせていたいだ時、それに対してじぇいどさんもいろいろ書いてくださって、それを拝読して、私も思うところがいろいろあり、また書かせていただきたかったのだけれども。
    実は、あの頃から主人の介護がハードになり、ゆっくりコメントを書かせていただくどころではなくなりまして。
    で、このあいだの3月のお彼岸の翌日、とうとう、自宅で亡くなりました。
    主人は、ずっと、いつ死んでもおかしくない状況の年月が長かったので、私も、お別れする練習は時間をかけてやってきましたから、感情的な揺れはそんなにないんです。
    でも、これからのことを考えると、むちゃくちゃ不安です(経済面とか)。

    それはともかく。

    須弥山というと、チベットの砂マンダラを思い出します。
    金剛マンダラと胎蔵マンダラを、色鮮やかな砂で描き、完成して宗教的儀式を完了すると、あとはまた砂に戻してしまう、という。
    で、そのマンダラの真ん中には、いつも須弥山が描かれていたのですよね……。
    そして、マンダラというと、ユングを思い出したりもするのですけど。
    ユングのマンダラの場合、中央に須弥山みたいなものを想定する構造になっていたのかどうか。どうなんだろうなあ、なんて、今、ふと思いました。
    いずれにしても。
    マンダラでは、平面状に描かれますけど、実は、須弥山というのは、3Dというか、4Dというか、いやもっと、高次元界なわけですよね。
    現実の自分の病気や体質などの在りようを書き換えるスピリチュアルなテクとして、そういう原因界みたいなところまで行って、そこから自分をプログラミングしなおす、みたいなテクも、よく、ありますよね。

    私、介護疲れのストレス喰いで、メタボ候補生となり、血圧も高く、また、腰のヘルニアから来ているらしい座骨神経痛持ちにもなってしまったのですが、もうちょっといろいろ落ち着いたら、運動や治療をするのはもちろん、この自分の在りようを、須弥山レベルから眺めて、どこをどう改善すればいいか、探ってみようかな、なんて思いました……。

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    1. みかさん、お久しぶりです。
      そうでしたか・・・まずはご主人さまのご冥福をお祈りいたします。
      そして、長い間の介護、本当にほんとうにお疲れ様でした。
      これ以上はなにを申し上げていいか言葉がうまくみつかりませんが・・・そしてまだ亡くなられて日が浅いですからとりあえず必要な手続きなどに(山のようにありますよね・・・)対応することに忙しくていらっしゃることでしょうが・・・。

      チベットの砂曼荼羅、テレビで制作過程含めたドキュメンタリーを見た覚えがぼんやりとはありますが。
      これがその一部かな。
      https://www.youtube.com/watch?v=10084L3Pqsc
      そうかあれも須弥山を中心にしたものなのですね。
      余談ですがあれみるとどうしてもCPUに見えて^^;

      ユングのマンダラの解説は実に興味深いですね
      『「マンダラとは・・・精神の像・・・であって、・・・ ラマ僧のみが想像の力によってこれを形成することができる。マンダラは一つとして同じものはなく、個々人によって異なる。また僧院や寺院に掲げられている ようなマンダラは大した意味を持たない。なぜならそれらは外的な表現にすぎないからだ。真のマンダラは常に内的な像である。それは心の平衡が失われている 場合か、ある思想がどうしても心に浮かんでこず、経典を紐解いてもそれを見出すことができないので、みすからそれを探し出さなければならない場合などに、 (能動的な)想像力によって徐々に心の内に形作られるものである」(C・G・ユング「心理学と錬金術?」第三章「マンダラ象徴」1976 人文書院)』

      そうですね、とりあえず、落ち着いたら次は体を動かして、運動や治療、からですね^^。肉体という器のおかげで様々な体験ができる我々、肉体の健康がまずは精神活動をささえる基礎部分ですから^^。

      これからのみかさんの人生が様々な面で豊かで穏やかなものでありますように。幸せが沢山訪れますように。

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  8. みかです。
    じぇいどさん、心のこもったレスをありがとうございます。
    本当に、諸手続きが簡単にはいかなくて、その上、連休に引っかかってしまうので、まいったな、と思いながら、やっています。

    そうですよね、ユングの場合、マンダラというのは、既存の宗教的形式にのっとったものではありませんから、須弥山的なものを想定する、とか、そいういうことはないですよね。
    能動的に求めるものでありながら、深いところから自発的に立ち現れて視覚的なかたちであらわれてくる世界像というか。

    ところで、前に触れさせていただいた南京の事件を日記に記録していた人のことですが、この人の話が、映画になっているみたいです。
    もちろん、娯楽映画ですので、事実とは、あちこち変えてあるみたいですが。
    ●ジョン・ラーベ
    〜南京のシンドラー〜
    http://johnrabe.jp/

    それから、前に書かせていただいた、政治的志向性ってどこから来るのか、ってことですが。
    それに関して、こんな記事が。
    ●「政治的な志向性」には遺伝子の影響も:研究結果
    http://www.huffingtonpost.jp/2013/12/24/genetics-politics-beliefs-encoded-genes-video_n_4500231.html

    あと、こちらも。
    ●あなたがリベラルか保守かは、「気持ち悪い写真」に対する脳の反応でわかる(研究結果)
    http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/30/maggots-reveal-liberal-or-conservative_n_6395006.html

    ああ、そうだろうな、という感じがします。
    こういうことが、ひいては家風を作り、人の政治的志向性のベースを決めていくのかもな、と。
    特に生まれ持った自己防衛本能に加えて、ある種の愛着対象への喪失感が、幼児期の経験で強化されたりすると、リスキーなもの(と当人が思い込んだもの)を忌み嫌う傾向が強まり、保守性が強くなっていくんでしょうね。

    もちろん、それだけでなく、本来の魂の成長度合いや志向性も大きいのでしょうが。

    すみません、須弥山のことから、脱線してしまいましたが。
    ともかく、まずは、主人亡き後の諸手続き、スムーズに片付くよう願いながら、そしてまたそうなると信じながら、一つずつ取り組んでいこうと思います。

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